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カントール,ゲオルク

Georg Ferdinand Ludwig Philipp Cantor

出生: 1845年3月3日,ロシアのサンクトペテルスブルク (St Petersburg, Russia).

死没: 1918 年 1 月 6 日 ドイツのハレ (Halle, Germany).

ゲオルク カントール の父,ゲオルク ヴァルドマール カントール は ペテルスブルクで卸売業を営み,後にペテルスブルク証券取引所の仲介業に 携わった,富裕な商人であった. ゲオルク ヴァルドマール カントールの生まれはデンマークであり, 文化と芸術を深く愛する人物であった. ゲオルクの母,マリア アンナ ボームは音楽に深い造詣をもつロシア人である. 秀でたヴァイオリニストであったゲオルクの才能は,明らかに 両親の音楽と芸術のそれを引き継いだものである. ゲオルクはプロテスタントとして育てられたが,これは父親の 宗教である.母親はローマン カトリック教徒であった.

家庭教師による幼年期の教育の後,カントールはペテルスブルクの 小学校に入学したが,1856 年,11歳のときに,一家はドイツに 移り住むことになる. カントールは

... その後の生涯を最後までドイツで暮らし,読み書きが 出来たに違いないロシア語をまったく書き残していないが, にもかかわらず, ロシアでの幼年時代を深い郷愁をもって思い出し, ドイツでは心休まることはなかった.

I. Grattan-Guinness, Towards a biography of Georg Cantor, Ann. of Sci. 27 (1971), 345-391.

カントールの父親は病弱であった. ドイツへの移住は,サンクトペテルスブルグの厳寒を避けて, より温暖な気候の地で暮らすためであった. 最初に一家はヴィエスバーデンに居を構え,そこでカントールは 中等学校 に入学する.その後フランクフルトに移り住んだ. カントールはダルムシュタットの工芸学校(Realschule)で,寄宿生として 学んだ.1860年に卒業しているが,特に三角法について 数学的な卓越した技能の習熟を示す優れたレポートを残している. 同年にダルムシュタットの高等実業学校に入学後, 1862年にチューリッヒ科学技術専門学校に入学した. 父親が,カントールを高等実業学校に入学させた理由は, カントールに

科学技術世界の輝く星

になることを希望したからであったという.

ギムナジウム Gymnasium

ドイツやその他の中央ヨーロッパ諸国の中等学校.

しかしながら,1862年にはカントルは父親に,大学で数学を専攻したいと いう希望を伝え,許してくれるよう懇願する.とうとう父親が それを許可したときのカントルの喜びようは大変なものであった. ところが,チューリッヒでの彼の勉強は,1893年6月に父親が 他界したことによって頓挫する. カントルはベルリン大学に移り,そこで奨学生であった ヘルマン シュヴァルツ Hermann Schwarz と親交を結ぶ. カントルはベルリン大学で ワイエルシュトラス Weierstrass クンマー Kummer クロネッカー Kronecker らの講義に出席した. 1866年の夏学期をゲッティンゲン大学で過ごした後, ベルリンに戻り, 整数論 に関する学位論文『2次の不定方程式について』 De aequationibus secuidi gradus indeterminantis を1867年に完成させる.

整数論 number theory

自然数 N の性質を研究する分野であり,次のようなテーマからなる;

ベルリンでカントルは 数学会 と深く関わり,1864から翌年にかけて 学会の座長を務めた. また,毎週ワインハウスで開かれる若手の数学者の小規模な会合にも, 参加している. 1867年に博士号を授与された後,ベルリンの女学校で教壇に立った. そして翌 1868年には,数学教師のためのシェルバッハセミナーに 参加している. この間,カントルは 大学教授資格取得 habilitation の準備を行い,1869年にハレで指名を受けて直ちに学位論文を提出し, 大学教授資格を得た.

大学教授資格取得 habilitation

ハビリタツィオン (Deu. Habilitation )は, ドイツの大学で講義するのに必要とされる,博士号取得後の 資格取得である.この一環として提出が義務付けられている論文を ハビリタツィオンスシュリフト (Deu. Habilitationsschrift と言う.

ハレで,カントルはその研究領域を数論から解析学へと方向転換を 行う.これは ハイネ Heine の影響によるところが大きい.ハイネはハレでの年長の同僚であり, 彼はカントルに,関数を三角級数として表す際,その表現が一意的であることに 関する未解決問題を証明するよう喚起した. これは,ハイネ自身を含め, ディリクレ Dirichlet リプシッツ Lipschitz ,そして リーマン Riemann などの多くの数学者が挑戦したが成功しなかった難問であった. カントルは1870年の4月に,表現の一意性を証明して,この問題を 肯定的に解決することに成功した. カントルは1870年から1872年の間に,三角級数に関して更に 発展させた論文をいくつか公にしている. これらの論文には,ワイエルシュトラスに教えられたことの 影響が色濃く伺える.

カントルは1872年に,ハレ大学の員外教授となり,同年に スイスに休暇で訪れていたカントルは, デデキント Dedekind と親交を結ぶ. カントルは 1872年に公にした三角級数についての論文で, 無理数 irrational number を収束する 有理数 rational number の無限列によって定義した. デデキントが所謂「デデキントの切断」による実数の定義を発表したのは, やはり同年 1872年であった.この論文の中で, デデキントはカントルに寄贈された1872年の論文に言及している.

無理数 irrational number

有理数でない実数を 無理数 と言う. 従って無理数は整数同士の比で表すことができない. 例えば, \sqrt{2} は無理数である.

有理数 rational number

整数同士の比で表される数を 有理数 と言う. 例えば \frac{1}{2} \frac{3}{5} は有理数であるが, \sqrt{2} は有理数ではない.

1873年,カントルは有理数の全体は可算であること, つまり自然数の全体と1対1に対応させることができること, を証明する.同時にまた, 代数的数 algebraic numbers , つまり整数係数の高次方程式の根になる数, も可算であることを示した. では,実数は可算か? この問に答えようとする彼の目論見は より困難であることが判明する. とうとう1873年12月,実数は可算でないことを証明し, この結果を1874年の論文で公表する. 集合の濃度を1対1対応によって考える,というアイデアは この論文に始まるが,未だ潜在的なものに止まっている.

代数的数 algebraic numbers

ある実数が 代数的数 であるとは, その数が整係数(または有理係数)の多項方程式の根であることである. 例えば \sqrt{2} x^2=2 の根であるから,代数的数である.

超越数 とは, 整係数の多項方程式の根ではないような無理数のことである. リューヴィル Liouville は 1851 年に超越数が存在することを示した. その20年後,カントルは 1874年のこの論文で, 実数は可算ではないことを示した.ということは, 既に示された代数的数の可算性と合わせると, ある意味で「ほとんどすべての」数が超越的であることになる.

超越数 transcendental number

超越数 とは整係数 (あるいは有理係数)の 多項方程式の根にはならないような実数である. \pi, \ee は超越数であることを証明することができる (多少難しいが).

カントルはデデキントと書簡を交わしながら,更に考察を進める. 1874 年の1月,彼が次に自分に立てた問いは, 単位正方形に含まれる点と単位線分に含まれる点とは, 1対1の対応で互いに写像できるか否か,というものであった. 1874年1月5日付けのデデキント宛の手紙で, カントルは次のように書いている;

H. Meschkowski, Biography in Dictionary of Scientific Biography (New York 1970-1990).

平面上の広がりをもった領域(例えば境界を含む正方形のような) が, ある線分(端点を含む直線分のような)と一意的に関係付けられて, 領域に含まれるどんな点も線分上のある点に対応し, また逆に,線分上のどの点にも領域に含まれる点が存在するように することができるでしょうか? 私は,この問に答えることは決して容易ではないと考えています. 答は証明が必要ないほど明らかに「否」であるように思われる にもかかわらず,です.

1874 年はカントルの個人的な生活という点でも重要なものである. カントルはこの年の春,妹の友人であるヴァリー グートマンと 婚約した.同年8月9日に2人は結婚し,スイスのインターラーケンに 新婚旅行で訪れた. そこでカントルは多くの時間を,デデキントとの数学的な議論に 費やした.

カントルとデデキントとの書簡のやり取りは更に続いた. その中でカントルは自分の考えを表明し,デデキントの意見を 求めている. とうとう1877年,実数の閉区間 [0, 1] の点と p -次元空間の点の 間に1対1の対応が存在することを証明する. カントルは自分自身の発見に驚き,デデキントに 次のように書き送る;

我,見れども信ずること能ず! I see it, but I don't believe it!

当然のことながら,この発見は幾何学,特に空間の次元という概念に 大きな影響を与えた. カントルは次元について考察した大きな論文を,1877 年に クレレ Crelle の雑誌 Crelle's Journal に提出するが, クロネッカーに疑いの目をもって扱われ,デデキントが カントルの味方をしてクロネッカーとの間を取り持って やっとのことで,この論文は公にされた. カントルは,自分の研究に対するクロネッカーの敵対に憤慨し, これ以降クレレの雑誌には一切論文を提出することはなかった.

1878 年のクレレ誌 Crelle's Journal に掲載された,次元に関するこの論文では, 1対1対応の概念が明確にされている. この論文で可算集合,つまり自然数と1対1に対応する集合,が論じられる. 濃度の等しい集合,つまり1対1に対応しあう集合が論じられ, 更に進んで次元概念が考察される. そこで強調されるのは,彼が発見した,区間 [0, 1] と単位正方形との間の対応は,連続写像ではない, という事実である.

1879年から1884年の間に,カントルは集合論への基本的入門のための 一連の論文6編を, Mathematische Annalen に発表する. Mathematische Annalen がこれらの論文を掲載したのには, クライン Klein の影響が大きかったであろう. これらの論文執筆の最中にも,解決が困難であることが判明する 多くの問題が,カントルには生じている. ハイネの推挙によって,カントルは1879年に終身教授職に 昇格するが,カントルはより有名な大学での教授職を希望していた. シュヴァルツとの長くに渡る手紙のやり取りも, 1880年,カントルのアイデアに対する反対意見が増大し続けた頃になって 途絶える.これ以降,シュヴァルツはカントルの研究が向かおうとする 方向に支援を送ることはなかった. そのような折,1881年にハイネが他界し,ハレ大学の教授職の 椅子を埋める後継者が必要となった.

カントルはハイネの後継者として,3人の数学者を列挙した. 第1にデデキント,第2に ハインリッヒ ウェーバー Heinrich Weber , そして最後に メルテンス Mertens であった. カントルにとって,1882年の初頭にデデキントに招聘を辞退された のは,大きな衝撃であったし,その衝撃は ウェーバーとメルテンスの拒絶によって更に大きなものとなった. 新たな数学者が列挙された後, ヴァンゲリン Wangelin が任命されるが, ヴァンゲリンはカントルと親密な交際を結ぶことはなかった. また,カントルとデデキントとの間の,数学的な内容にあふれた 書簡のやり取りも,1882年の暮れをもって終わる.

しかしながら,カントル-デデキント往復書簡が終わるのと ちょうど同じ頃,カントルは ミッタク-レフラー Mittag-Leffler との 重要な書簡の交換を始める. すぐさま,カントルはミッタク-レフラーの雑誌 Acta Mathematica への論文の投稿を始めるが, Mathematische Annalen に 6編からなる重要な一連の論文の続編が発表されたのもこの年である. このシリーズの第5論文 Grundlagen einer allgemeine Mannigfaltigkeitslehre (「 一般集合論の基礎 」)は,分冊の単行本としても 出版され,いくつかの観点からして大きな重要性をもつ. まず第1に,カントルは自分の集合論が望んだほどには賛同を勝ち得て いないことに気づき, Grundlagen でもって批判に答えようとしていること, そして第2には次である;

Grundlagen の主要な意味は,超限数を自然数の 自律的かつ体系的な拡張として提示している

J. W. Dauben: Georg Cantor: His Mathematics and Philosophy of the Infinite. (Cambridge, Mass, 1979; reprinted 1990).

カントル自身,この論文において,自分のアイデアに対する反対意見が 強いことに気がついたことをごまかすことなくはっきり認めている;

... 以下で企てた論考の中で,私は自分を, 数学的無限に関して広く認められている見解と, 数のあり方に対してしばしば保持される意見とに対して,反対の立場に 立たせていることに気がついた.

1884年の末,カントルの神経衰弱の罹患が初めて記録されている. 数週間後には回復するが,それでも自信を喪失したように見えた. 1月末,ミッタク-レフラー宛書簡で次のように記す;

... 私が再び科学的な私の仕事を継続できるまで回復するのは何時か, 私には判りません.ここしばらくのところ,私は何一つ, それに手をつけられないでいます. しなくてはならない講義の準備をするだけで限界です. 私に必要な精神的なはつらつささえ返ってきて, 科学的に活気がでれば,どれだけ幸せでしょう.

かつて,カントルの神経衰弱は数学的な気苦労に発するものであり, とりわけクロネッカーとの関係がうまくいかないことの結果であると 考えられていた. しかしながら今日では,精神的疾患についての理解が深まったことによって, 確かにカントルの数学的な気苦労と人間関係の難しさが 彼の神経衰弱を重くしたのは事実であるが,決してそれが原因である わけではないことが,明らかになっている.例えば, 次を参照のこと;

J. W. Dauben: Georg Cantor: His Mathematics and Philosophy of the Infinite. (Cambridge, Mass, 1979; reprinted 1990).

I Grattan-Guinness: Towards a biography of Georg Cantor. Ann. of Sci. 27 (1971), 345-391.

1884年の精神的疾患の後,
... カントルはハルツの山岳で休暇を過ごし,何らかの理由で クロネッカーと和解する決心をした. クロネッカーはカントルの意思表示を受け入れたが,両人にとって, 敵意と,相変わらず存在していた哲学的な立場の不一致を忘れ去ることは 困難であったに違いない.

J. W. Dauben: Georg Cantor: His Mathematics and Philosophy of the Infinite. (Cambridge, Mass, 1979; reprinted 1990).

新たな数学上の気苦労が,この頃カントルを苦しめ始めた. 特に 連続体仮説 を証明することができなかった ことにカントルは悩み始めた.連続体仮説とは, 実数がもつ無限の位数が自然数の無限の位数の次である,という 仮説である. 事実,ある日それが偽であることを証明できたと思うと,次の日にはその証明に 誤りを見つける,またある日それが真であることを証明すると, 直ちに自分の誤りが見つかる,という有様であった.

連続体仮説 Continuum hypothesis

自然数の集合N の基数と実数の集合R の基数の 間の基数をもつ集合は存在しない,という主張を 連続体仮説 と言う.

一般連続体仮説 Generalised Continuum hypothesis とは,A を集合とするとき,A の基数と A の部分集合すべてからなる集合の基数の間の基数をもつ 集合は存在しない,という主張である.

連続体仮説は,集合論の他の公理からは独立であることが 示された.

ころころ,カントルは他の面でもうまくいかなかった. 1885年にミッタクレフラーは, Acta Mathematica に カントルが提出した論文を取り下げるように説得する. それは主要な証明に差しかかる頃のことで,その理由は, ミッタクレフラーの目から見て「...100年ほど早過ぎる 」 からであるというものであった. カントルは笑い飛ばしたが,彼が傷ついたことに 間違えはない:

ミッタクレフラーの言う通りにしていたら,私は 1984年まで 待たねばならないことになる. これはあまりにひどい要求だ! ... だがまた,私は Acta Mathematica がどうなっているのかも, 私は知りたいとは思わない.

ミッタクレフラーは親切心からしたことではあるが,しかしながら, 彼のしたことは,カントルの仕事の重要性に対する無理解を示している. ミッタクレフラーとカントルの書簡のやり取りは, この事件の後すぐに途絶え,また,カントルによる集合論の急激な 展開を導いてきた12年に渡る新たなアイデアの奔流も, ここで息絶えたように思われる.

カントルは1866年に,ドイツの作曲家ヘンデルの名にちなんだ ヘンデルシュトラッセに新たに立派な家を買い入れる. その年末に男子がうまれ,彼の子供は6人となった. またこの頃,カントルは集合論の数学的な展開から離れ, 2つの新しい方向へと向かう. その第1は,自分の集合論のもつ哲学的側面を多くの哲学者と 議論していることである.1888 年にこの往復書簡を 公にしている. そして第2に, クレブシュ Clebsch の 死後,彼の遺志を継いで ドイツ数学者協会 ( Deutsche Mathematiker-Vereinigung ) の設立に尽力し,それは1890年に実現する. カントルは,1891年9月にハレで開かれたその第1回目の会合で 議長を務め,またクロネッカーと自分の間の苦い反目を押して, その第1回目の会合にクロネッカーを招聘した.

しかしながらクロネッカーはその会合には出席しなかった. クロネッカーの妻が,前年の夏に登山での事故により大怪我を していたせいである.彼女はその後間もなく他界した. カントルは第1回目の会合で ドイツ数学者協会 (Deutsche Mathematiker-Vereinigung) の会長に選ばれ,1893年までその地位に就いていた. かれは1893年の9月にムニッヒで開かれた会合の段取りに助力したが, 会合が開かれる前に再び健康を害し,結局会合に参加できなかった.

1894年に,カントルは奇妙な論文を発表する. その中では,1000 に至るまでのすべての偶数を2つの素数の 和として表す表し方が列挙されている. ゴールドバッハ予想 が 10000まで確かめられたのはこれより40年も前であるであるから, この奇妙な論文はゴールドバッハ予想についてよりも,むしろカントルの 精神状態について多くを語るものである.

ゴールドバッハ予想 Goldbach's Conjevture

1742年に,ゴールドバッハはオイラーに宛てた書簡で, 2よりも大きいどんな偶数も,2つの素数の積として表される,と いう予想を立てた. 多くの進展はあったものの,今のところこの予想は証明されていない.

1895年から1897年にかけて,集合論に関するカントルの主要論文が 再び現れる.今度も Mathematische Annallen 誌であり,クラインの 編集によって公にされた.そこでは超限数に関する算術が 論じられている. この2つの論文が公にされた時間的な隔たりの理由は, 第1部が刊行されて6ヶ月後には第2部は既に完成していたにもかかわらず, カントルが第2部に連続体仮説の証明を含めようとしたことにある. しかしそれは無理な話であった.それでも,この第2部では,彼の 整列集合と順序数についての考察が展開されている.

1897年に,カントルはチューリッヒで開かれた国際数学者会議に 参加した.その会議では,

フルヴィッツ Hurwitz は 公然とカントルを大いに賞賛し,関数論を豊穣なものにした 一人であると公言した. また, ジャック アダマール Jacques Hadamard は, 集合論の概念はあまねく知られるようになっていて,それは 欠くことのできない装置である,という自分の考えを 表した.

P E Johnson: A history of set theory (Boston, Mass., 1972).

会議の席上でカントルはデデキントに再開し,旧交を温めることになる. ところが,会議の進行中に,カントルはあろうことか集合論の 第1のパラドクスを発見する. 更に,1895年から1897年にかけての概説的な論文を執筆中にもいくつかの パラドクスを発見し,1896年に ヒルベルト Hilbert にパラドクスの中身を説明する 書簡を送った. ブラリ-フォルティ Burali-Forti も カントルとは独立にパラドクスを発見し,1897年に公にした. カントルはデデキントとの手紙のやり取りを再開し, 問題をいかにして解決するかを理解しようとするが, 多発する精神的な疾病のせいで1899年には,デデキントに手紙を 書くこともできなくなった.

カントルはうつ状態にある間は,数学から離れて哲学や, そして,シェークスピアの戯曲を書いたのはフランシス ベーコンである, という信念のもとで,文学的な興味へとのめりこんだ. 例えば1884年の闘病時には,数学の代りに哲学を講義することを 認めるように大学に要求しており,また,彼の 「ベーコン - シェークスピア」理論を証明しようとして, エリザベス朝の文学を集中的に研究した. 1896年と1897年には,文学的な自分の問題意識を綴った 小冊子を刊行し始めた.1896年の10月,自分の母親の死没, また1899年1月の弟の他界によって,カントルは 手ひどい精神的な圧迫を被る.

1899年の10月,カントルは1899-1900の冬学期に,教壇から離れられるように 大学に要請し,許された.すると1899の12月6日,末の息子が 死没する. このとき以来生涯を終えるまで,カントルのうつ病との闘いは 途切れることはなかった. 教壇には立ち続けたが,何度も冬学期の講義を辞している. 1902-03, 1904-05, 1907-08 がそうである. 1899年からこの方,精神的な疾患がひどいときには,療養所で生活した. それでもかれの「ベーコン - シェークスピア」理論の研究を 続け,論文を公にし,また数学を完全に捨てたわけではない. 1903年9月のドイツ数学者協会 の会合では, 集合論のパラドクスについて講義を行っているし, また1904年の8月,ハイデルベルクで開かれた国際数学者会議に出席 した.

1905年に,しばらくの病院生活から開放されて帰宅した折に, 宗教的な研究を書き残している. またカントルは, ジョルダン P. E. B. Jourdain に 集合論の歴史について書き送り,彼の宗教に関する小冊子を 送付している. 1909年中のほとんどを闘病のために大学から休暇をとった後, 1910年,1911年には大学での義務を果たすことができた. この年,スコットランドのセントアンドリュース大学から, 高名な海外の研究者として,その設立500周年の記念式典に 招待されて,カントルは喜んだ. 記念式典は1911年9月の12日から15日にかけて執り行われたが, しかしながら

訪問している最中に,彼は明らかに常軌を逸した振る舞いを するようになっていった. ベーコン-シェークスピア問題について長広舌をふるった. その後,数日間ロンドンに旅行に出かけた.

I. Grattan-Guinness: Towards a biography of Georg Cantor. Ann. of Sci. 27 (1971), 345-391.

カントルは, Principia Mathematica を 出版したばかりの ラッセル Russell に 会おうとした.ところが,自分の体調の不良と, 息子の病気の知らせのせいで,カントルはラッセルと顔を 合わせることなくドイツに戻った. 翌年,カントルはセントアンドリュース大学から法学の 名誉学位を授与されるが,学位授与のために本人が 出向くにはあまりに疾病は重かった.

カントルは1913年に引退し,晩年の数年間を健康を害しながら, 更にドイツの戦争状態による食物不足の中で送らざるを得なかった. 1915年に,カントルの70歳の誕生日をハレで祝う大きな祝賀会が 計画されたが,戦争のせいで実現しなかった. その分,カントルの自宅で小さな会が開かれた. 1917年,最後の療養所生活が始まり,そこでカントルは妻に, 自宅に帰ることを許可して欲しい旨を述べた手紙を 書き続けた. そして,死没 ... 心臓発作であった.

ヒルベルトはカントルの研究を次のように述べる:

... 数学的才能の最良の作品にして,人間の活動たる 純粋知性が果たした至上の偉業のひとつである.

Articled by: J. J. O'Connor and E. F. Robertson

Translated by: YAMASHITA, Koichiro ( kymst )